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村松大輔氏インタビュー[vol.2]

-元々、村松さんがサッカーを始めたキッカケというものは?

母親が藤枝出身なのですが、そのお兄さんが藤枝東高校のサッカー部のキャプテンをやっていて、僕がもの心ついた時には静岡県サッカー協会の技術委員長だったと思いますけど…。その叔父さんと一緒にボールを蹴ったりしていてサッカーに興味を持つようになりました。

-その繋がりもあって藤枝東高校へ入学したのですか?

祖母の家が藤枝にあり僕はそこにいることが多いということもあって、藤枝でサッカーをやるならその当時は藤枝東だと思っていたので。叔父さんの出身校でもありましたから、藤枝東高校に入りたいというのはずっと思っていました。

-それで河井陽介(カターレ富山)選手と出会うわけですか?

河井も藤枝東高校の下部組織の藤枝東FCに所属していて、僕と河井はそこの1期生だったのですよ。河井のことは小学生の頃から知っていましたけど、中学1年生から藤枝東FCで同じチームでやることになりました。

-その当時の河井選手はどのような感じでしたか?

あまり変わらないですねアイツは…。一番気が知れているというか、一緒にいて一番楽だったのは河井ですね。

-エスパルス時代もずっと一緒にいましたよね?

そうですね。ずっといましたね。でも、中学生からずっと一緒にいましたから一緒にいるのが当然みたいになっていました。

-今でも頻繁に連絡はしているのですか?

年一回くらいですね。まあ元々連絡をし合う感じではないですね。エスパルスにいた時でも職場で毎日顔を合わせていましたから、プライベートで連絡を取り合うのは年に2、3回でしたからね。

-その河井選手は富山でまだ現役を続けられていますが?

河井はサッカーが好きで未だにプロという舞台でやれているというのはすごく良いことだと思いますし、その舞台でまだ現役を続けていることは素直に「すごい」という印象は受けますけど…。逆に河井を見ていて自分は29歳で引退して良かったと思っています。まあアイツも頭が良いのでいろいろと考えてはいると思いますし、今後の河井がどうなるかはわからないですけど、今の30歳後半になる年齢で自分のようにサッカー界から一般企業へ就職して働くことというのはなかなか難しいと思います。ましてやここまでの人生のすべてをサッカーに注いできたプロアスリートが、一般の社会人となることは容易ではないとも思うので…。もちろん河井はやれるのかもしれませんし、そのままサッカー界で生きて行くのであれば問題はないと思いますけど、河井なら他の分野でも十分通用すると思うので何かサッカーとは別の世界で成功してもらいたいなということも思っています。

-村松さんはそういうことも意識して29歳で引退して一般社会に出たと?

当時もそうでしたけどこのことはどこのメディアにも話してはいないのですが、元々、僕は20代で引退しようと思っていて「30歳では絶対にやらない」と決めていました。

-引退はギラヴァンツ北九州でしたが、その時は引き止められることはなかったのですか?

代理人からは「まだまだやれるからやろうよ」と話はいただいたのですが、僕的には終わりにしようということでしたね。

-やり切った感じが強かったと?

「やり切ったか?」と聞かれると悔いが残っていることも正直あるのですが、元々、決めていたことでしたので…。

-引退後に何をやろうということも考えていたのですか?

本当は新聞社に入りたくて…。僕の印象としては記者の方はいろいろな話を聞いて咀嚼して、世の中に分かりやすく伝えることが仕事だと思うんですね。今までは取材される側として答えていた自分が、伝える側になるのは面白いかなという考えがあって新聞社へ就職したかったですね。

-取材対象者だった現役時代は記者に対してはどのような印象がありましたか?

若い頃は「面倒くさいな」という感じでしたけど、年を重ねるにつれて「自分の声や思いを届けてくれる」という感謝の気持ちはありましたね。

-当時、喋りはあまり得意ではなかったように記憶していますが?

「あまり」ではなくて「まったく」得意ではなくて取材されるのは嫌でしたね。顔見知りの、いわゆる番記者の方とは割と喋れていたと思いますけどそれ以外の取材は嫌でした。

-HONDA FC時代は午前中に仕事をしてから午後は練習という生活だったと思いますが、いかがでしたか?

そうですね。まだ若かった(19才)ので…。結構、ハチャメチャでした。ラインに入って仕事をしていたのですがミスが多くてよく怒られていましたよ。なかなか両立は難しいなと当時は思っていました。

-そのHONDA FCでのプレーは1年間だけでしたが?

その時がU-19ワールドカップのアジア最終予選の年だったので、ほぼHONDA FCのチームには参加できていなかったです。ずっと各国へ遠征に出ていましたから…。HONDAからJFAへ「出向」という形をとっていて、HONDA FCでは本当に数試合しか試合に出ていませんでした。

-翌年には当時J2の湘南ベルマーレからオファーがあったと?

はい。HONDA FCでの活躍というよりはU-19でのプレーを認められた感じでオファーをいただいて移籍しました。

-他からのオファーもあったのですか?

全部で5クラブくらいからオファーをいただきました。どこだったかな…。すべてJ2でしたが福岡、甲府とかもオファーしてくれたと思います。

-その時は清水エスパルスからはオファーはなかったと?

残念ながらなかったですね。あの時はアビスパ福岡のGMがこちらに何度も足を運び食事をしたりして「是非福岡に来てくれ」とほぼ決まりかけていたのですが、当時の湘南の監督の反町(現清水GM)さんが声をかけてくれまして…。

-契約条件が湘南のほうが良かったのですか?

いや、条件は一緒だったと思いますが(静岡から)近いじゃないですか。それが湘南に移籍を決めた理由でした。まだ若かったということもあるのですが、当時付き合っていた子がいて、その子がまだ高校生でしたので近い湘南のほうがいいかなということで…。

-なるほど。好きな子のために近い湘南を選んだわけですね?

まあ、ソリ(反町)さんが熱心に誘ってくれたというのも…。後付けですけどありましたね。

-その際の反町さんの印象というものは?

ソリさんが監督で曺貴裁(京都サンガ監督)さんがコーチでしたけど、正直、なぜ僕をあれほど最初から起用してくれたのかはわからなかったですね。シーズン前のキャンプもU-19の合宿があって遅れて参加したんですよ。ですからキャンプの途中から合流したわけで、チームのみんなと合わせるのもそこまで時間があったわけではないですが、最初からレギュラーのメンバーに入れてもらって…。ソリさんがどういう意図や思いがあったのかはわからなかったですね。ソリさんのイメージとしては「すごく細かい人」というイメージですね。

-村松さんのプレースタイルである「走れて頑張れる」ところが良かったのではないですか?

どうですかね。湘南での1年目がリーグ戦で50試合くらい出たと思います。出なかった試合も累積警告で出場停止だったはずで…。結構使ってもらいました。

-直接反町さんに確認とかはしなかったのですか?

そこまではしなかったです。

-アマチュア選手からプロのJリーガーになっていかがでしたか?

意外とやれるなとは思いました。

-ポジションはセンターバックだったのですか?

はい。

-清水でのイメージはボランチが強いと思いますが元々はセンターバックだったのですね?

そうですね。小学校の頃はいろいろなポジションをやっていました。昔は足が速くて身体もある程度大きかったのでいろいろなポジションをやらせてもらっていたのですけど、中学からディフェンスになりました。

-ディフェンダーは自分に合っていたと思いますか?

一番自分に合っていたのは今でもセンターバックだと思っていて。元々、子供のころから相手選手の動きを予測することが好きで、その能力というものは自分でも長けていると昔から思っていたので…。それが一番生かされるのはセンターバックかなと思いますね。

-清水での話はあとで伺いますが、ボランチはなかなか大変なポジションでしたか?

結局、ボランチはセンターバックとは視野が違うのですごく嫌でしたね。センターバックはうしろは気にせずにプレーできるのですが、ボランチは全方位を意識していないといけなかったですから。だから嫌というよりも大変でした。

-ただボランチは攻撃にも参加できるし、中盤を支配すれば試合を有利に進めることができるので、面白いポジションかなとは思いますが?

そうですね。だから自分は割り切ってプレーしていました。自分のプレースタイルとしてはボールをさばけるでもなく守備専門の選手でしたから、ある程度相手を潰してボールを奪うボランチだと。それで走力もあったので、チャンスがあればそのままゴール前に入って行くことを意識してプレーすることも、慣れてからは心掛けてやっていました。まあ実際は自分には「それしかない」ということだったんですけどね。

 

 

次回へ続く