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和田雄三氏インタビュー[vol.1]

インタビュー:2025年5月


-本日はよろしくお願いします。

インタビューなんて何年ぶりだろう、緊張してしまいますね。よろしくお願いします。

-和田さんがサッカーを始めた理由は?

1つ年上の兄がサッカーをやっていたので、自分もやってみたいなと思ったのがキッカケでしたね。兄の試合を観に行って楽しそうだったので「俺もやりたい」となりました。

-それは何歳の頃ですか?

兄が小学校1年生の時だったので自分は幼稚園の年長さんですね。兄の友人のお父さんがサッカーのコーチをされていて、そこに兄がいたので自分も一緒について行きました。今は幼稚園からサッカーを始めるのは普通になっていますけど、当時はその年代の子供はまだやれなくて…。ですから1度やめてしまい、あらためてちゃんと始めたのは小学校3年生からですかね。

-それが「富士第一サッカースポーツ少年団」だったのですね?

はい。そこには元清水エスパルスの岩下(潤)くんや白井(博幸)くん、あと(佐藤)由紀彦くんもいました。

-すごいメンバーがいたのですね?

中学(富士市立富士中学校)にサッカー部がなかったのでみんな東海大学第一中学校に行って、岩下くんと白井くんはそのまま東海大学第一高校(現東海大翔洋高校)へ、由紀彦くんは清商(清水商業高校、現清水桜が丘高校)へ進学してみんなプロ選手になりました。

-和田さんが中学生になる頃には富士中学校にもサッカー部が設立されていたのですか?

そうですね。自分が入学する3年くらい前にできていました。ただ、自分もサッカーの強い学校に進学したかったのですが、ちょっと動くのが遅くなってしまい、各学校のセレクションもすでに終わってましたのでそのまま地元の中学に行きました。

-その当時のポジションは?

ポジションは真ん中でした。特に子供の頃は、上手い子はみんなトップ下みたいなポジションをやっていましたね。

-やはり周りの子供に比べると飛び抜けた存在だったのですか?

そうですね。そのチームの中ではそんな感じでしたけど、清水FCとかと試合をすると全然ダメでした。

-それで高校は静岡学園へ進学したわけですが、学校の部活には入らずにエスパルスユースを選択した理由は?

中学生のときに県選抜に選ばれていまして、そのチームメイトのほとんどがエスパルスジュニアユース所属ということでイチ(市川大祐)、松ちゃん(平松康平)など10人くらいエスパルスの選手がいたので。それで中体連が夏で終わり、その後にエスパルスの練習に参加させてもらっていたこともあって、高体連ではなくてそのままエスパルスユースへという流れになりました。

-当時のエスパルスジュニアユースはどこで練習をやっていたのですか?

長崎新田のグラウンドでした。JRで清水駅まで行って静岡鉄道バスの七ツ新屋で降りて通っていました。自転車で通う選手が多かったですけど、自分は練習開始時間には間に合わなかったので遅れて参加していました。

-当時のコーチ陣というのは?

中学3年生でしたけど、僕らはジュニアユースではなくてユースの練習に参加させてもらっていたので、望月保次さんが監督で、コーチには行徳(浩二)さんや加藤(慎一郎)さんがいました。

-当時参加したエスパルスユースのレベルというものは?

正直言って、エスパルスのトップチームを作るために下部組織を作ったのでそこまで…。その時代はまだ高体連のサッカー部の方が強かったですし、自分たちの1つ上の学年から選手が揃い始めた感じです。その年代が3年生の時にJリーグクラブユースカップで初優勝しました。

-1つ上の先輩には誰がいたのですか?

今、ジュニアユースU-14の監督をしている渡辺誠のお兄さん(渡辺孝介さん)などがいましたけど、実際にトップへ昇格したのは野沢(洋輔)さんだけだったような…。でも、その他では森下弘さんはモンテディオ山形へ入団しましたね。今のユースは選手を毎年12、13人ほど獲得しますけど当時は半分の6人くらいしか獲得していなかったですから、そもそもの選手数が違いました。

-それは優秀な選手しか取らなかったということですか?

今は試合数も多いですからチームが成り立つようにポジション別に獲得したりしていますが、初期の頃はトップに上がる可能性があるレベルの選手をという感じでした。

-和田さんたちの年代も強いチームだったのですよね?

そうですね。イチ、松ちゃん、タニ(谷川烈)もいましたし…。ただ、自分たちが3年生の時にはみんなが集まって試合することは少なかったですよ。トップの試合に絡んでいましたから、Jユースの予選とかは出ていたと思いますけど、ほとんどユースにはいなかったですね。

-和田さんはユースの3年生の時にトップで20試合の公式戦に出場していたわけですが、当時のトップの監督はどなただったのですか?

(オズワルド)アルディレス監督でした。

-ユース選手が20試合もトップの試合に出ることはちょっと今では考えられないのですが、アルディレス監督に気に入られていたのでしょうか?

どうだったのでしょうね。まああの時はいろいろな運が重なったというか、澤登(正朗)さんが体調不良だったとか、あとエスパルスが経営危機になっていたので選手の数が少なかったのもあって、それにケガ人やらが重なって…。それと(1998年フランス)ワールドカップもありましたから。 アレックス(三都主アレサンドロ)が左の前にいて左サイドバックとかやりましたけど、「3-5-2」みたいな感じの時もあってウイングバックもやりました。

-その時は市川さんや平松さんも一緒にトップへ呼ばれていたのですか?

イチがオーバートレーニング症候群になってしまったりして、その3人で呼ばれることはあまりなかったと思います。でも松ちゃんとは一緒に呼ばれることは多かったです。

-ユース時代にトップへ呼ばれてプレーしてみた感想というものは?

第一印象としては、当時はサテライトにいる選手とトップの選手の差があったのでノボリ(澤登)さんとテル(伊東輝悦)さんは別格でしたね。もちろん(長谷川)健太さんや(大榎)克己さんもそうでしたけど。

-トップチームの練習に参加する際、学校はどうしていたのですか?

今はトップの練習は午前中ですけど、当時は僕らに合わせてくれていたのかはわからないですが夕方からというか、僕らは高校が終わってから参加して3時過ぎくらいからですかね。蛇塚で練習をやっていましたからマネージャーに車で拾ってもらって行っていました。

-試合のメンバーというのは?

ボランチにサン(トス)ちゃんと克己さん、自分が前半に出て後半に健太さんに交代するパターンが多かったです。

-トップチームに入っても自分的には手応えはあったと?

そうですね。もちろん上手い選手が多かったですが、思っていたレベルよりはやれる感覚はありました。ただ、それがその後に定着できなかった要因なのかなとは思っています。自分が簡単に追い付けないレベルであればもっと努力しなければいけないとなったと思いますが、ちょっとそこでやれてしまって「こんなものなんだ」と感じてしまって…。そこで慢心してしまったのかなと思います。

-対戦した中で印象に残っているチームとか選手はいますか?

鹿島アントラーズの名良橋(晃)さんは対峙したときに「強いな」と思って、「さすがだな」と感じましたね。外国籍選手ではセレッソ大阪にいた黄善洪(ファン・ソンホン/韓国)が印象に残っています。

-和田さんのプレースタイルというかストロングポイントは?

左足には自信がありました。スピードはそこまで速くなかったですが、ドリブルは得意でした。今の代表の三笘(薫)選手みたいなドリブラーではなくて、馬力というか蹴散らしながらのドリブルでしたけど。

-アルディレス監督からは何か言われていましたか?

個人的にそんなに話はしていないですけど…いつも言っていたのは「判断を早く」ということで、練習中からみんなに言っていましたね。

-その他にアルディレス監督の印象というのは?

練習がミニゲームばかりで…楽しかったです。ボール回しとミニゲームだけでしたね。他のクラブはいろいろな練習をやっていたと思いますが…。でも今考えるとそれで強かったというのは凄いなと思います。

-ユースとの違いを感じたことは?

試合に出た時に思っていたのはパスコースが多かったです。ユースだと自分でパスコースを作る動きをしてからパスを出してしていたのですが、トップでは特にノボリさんとかは居てほしいところに顔を出してくれたりして、オリバもそうでした。そこの違いはすごく大きかったですね。周りのサポートがしっかりしていたのでプレーするのが楽でしたし、やりやすかったです。

-得点はナビスコカップでの1得点だったようですが、あまり得点チャンスはなかったのですか?

「点を取りたい」という気持ちはあまりなかったかもしれないですね。どちらかというとアシストの方が面白いと思っていました。良いボールを上げてFWの選手に決めてもらうのが楽しかったかな。あとドリブルが結構好きだったというのもあるかもしれないです。ユース時代でも点はあまり取ってないと思います。

-セットプレーのキッカーでもなかったのですか?

そうですね。僕よりも上手い選手はいっぱいいましたからね。アレックスもいましたし、ノボリさんもいましたからね。

 

 

次回へ続く