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村松大輔氏インタビュー[vol.3]

-湘南では2年間在籍して2011年には清水へ移籍することになりましたが?

移籍した1年目で湘南がJ2からJ1へ昇格することができたのですが、翌シーズンのJ1では結構ボロボロにやられて結局1年でまたJ2へ降格してしまったのです。やっぱり1度J1を経験してしまうと「J1でプレーしたい」という思いが強くなって…。そうしているところにエスパルスからオファーをいただきました。

-その時にオファーがあったのはエスパルスだけだったのですか?

その時は…。ただ、僕はもうエスパルスにしか移籍するつもりはなかったです。地元のクラブですし子供の頃は結構エスパルスの試合観戦に行っていましたから自分になりに愛着がありましたからね。

-ちなみに湘南に行くことを決めた彼女とはエスパルスに移籍が決まった時にまだ続いていたのですか?

いえ、その頃にはもうお別れしていました。

-実際に村松さんを獲得に出向いたのは誰でしたか?

興津(大三)さんでした。ただ、僕が個人的に会うことはなくて代理人と話をされていました。

-それで移籍してきたエスパルスの印象というものはいかがでしたか?

やっぱりレベルが高いなと感じました。(小野)伸二さんだったりタカ(高原直泰)さん、(小林)大悟さんだったりという結構なメンバーがいたので自分とのレベルの差を痛感しました。もう練習からすごくレベルが高かったですね。

-一番感じた違いというものは何でしたか?

判断ですかね。あと一つ一つの技術的なものも全然違っていました。判断が早く技術も高かったのでやっぱりレベルが高いと驚かされました。

-その中で一緒にやることになったわけですが、自信というものはいかがでしたか?

そうですね。個々の選手たちのレベルは高かったですけど、ただ子供の頃から自分のストロングポイントは何かというものを考えてプレーしていましたので、自分には「守備力」があると。ですから無理に他の部分で他の選手たちに追い付こうというよりも自分の強みの部分を伸二さん、タカさん、大悟さんや他の選手たちに認めてもらおうと守備についてはしっかりとやりました。

-村松さんは守備のストロングポイントを強調しようと?

僕としてはそのストロングポイント以外の部分を伸ばすことで、守備の部分を少しでも疎かにしてしまうと平均的な選手になってしまうのではないかと。僕はどこかの部分が突き抜けていれば良いと考えていたので…。もちろん他の部分もやっていましたけど、それよりも守備をしっかりとやっていれば使ってもらえると思っていました。当時の監督の(アフシン)ゴトビさんも外国人監督ということで、どこかが尖っている選手が好きなのだろうなというのがあったので「とりあえずそこだけやっておこう」という感じでした。

-ゴトビ監督というのは村松さんの中ではどういうイメージでしたか?

結構好きな監督でしたね。難しい監督というイメージもありましたけど…。日本人の監督は指示する言葉が日本語なのでダイレクトに耳に入ってくるのですが、ゴトビさんは英語なので…。正直英語は理解できず、何も気にせずにプレーしていました。

-でも遠藤洋通訳から日本語で言われていたと思いますが?

遠藤さんは優しいので、意味は同じでもやんわりと訳してくれて良かったですし、ゴトビさんはハッキリとしていて「闘う選手」が好きだったので、そういう面では自分は結構相性は良かったかなと思っています。

-気に入られた選手とそうでない選手の使われ方の差がものすごくあったように思いましたが?

そうですね。僕もある時期からまったく絡めなくなりました。ただ、僕はゴトビさんに使われたことでオリンピックにも行けましたし、今振り返れば良い経験をさせてもらえたと思っています。今だからそう言えますけど、やっぱり当時は急に使われなくなったのは悔しかったですけどね。

-それでもロンドンオリンピックに選ばれたことは大きかったと?

はい。やっぱりサッカーで一番はA代表に選出されることですけど、オリンピックは年齢的な制約もあるのでそれなりの価値はあると思います。サッカーをやっている時にもそう思っていましたけど、一般の社会に出てもそれは感じました。「オリンピック」を知らない人はいないですし、そのメンバーに入っていたというのは大きな肩書きというか知名度はあるなと。

-でも村松さんはフル代表にも選ばれていますよね?

はい。でも実際には試合には出ていませんし、サッカーに興味がない人からしたらワールドカップに出場していてもわかってもらえないかもしれません…。そういう人でもオリンピックは絶対に分かりますからね。そのオリンピックに出場したというのは結構大きいのだなと。サッカーを知らない人はA代表とかフル代表と言ってもわからないですからね。オリンピックにもフル代表が出ていると思っている人もいると思いますよ。

-そのオリンピック代表では、エスパルスに在籍していた権田修一選手(2024年退団)とプレーをされていましたよね?

そうですね。ゴン(権田)ちゃんと一緒でした。

-村松さんから見て権田選手というのは?

僕は18歳くらいから世代別の代表で一緒にやっていましたけど、やっぱり責任感というのはすごく高いかなと思っていました。ただ、そこは良い部分でもあるし、ゴンちゃんに信念があってのことだとは思いますが、自分がこうしたいというものがあると周りとなかなか合わないところもありましたね。

-言い方が悪いかもしれないですが「我が強い」という感じだったのですか?

そうですね。「プロであればそのくらいでなければ」と言う人もいますけど…。

-確か何かの試合後に権田選手と揉めたことがありましたよね?

ありましたね。キリンチャレンジカップのニュージーランド戦(2012年7月21日@国立競技場)ですね。

-どのような経緯だったのですか?

当時のエスパルスの監督がゴトビさんだったのですが、ゴトビさんはユニークな方で「ミスをしたとしても落ち込むのではなく笑っていろ」みたいなことを常に言っていて…。あの試合はオリンピックの壮行試合で終了間際に僕がミスをして同点にされて引き分けてしまったのですが、そこでも少しニヤっとしてしまったことでゴンちゃんが詰め寄って来た感じでしたね。

-当時はかなり衝撃的なシーンだったと思いますが?

そうですね。新聞にその場面を掲載されたりしましたからね。でも本当に嫌でしたよ。知り合いからいろいろと言われましたからね。

-でもその後は特に仲が悪くなるということもなく?

そうですね。大人の対応というか、僕もその時のゴンちゃんの気持ちも分かりましたので落ち込んでいてもしょうがないというのもありました。ただ「わだかまりがないか?」と聞かれるとね…。でも、もう13年前のことですし僕もさらに大人になりましたから引きずるようなことはないと思っています。

-エスパルスに移籍してからはどのポジションで起用されたのでしょうか?

最初はセンターバックとサイドバックで使われていましたけど、アヤックスとの親善試合(2014年4月13日@オランダ)で初めてアンカーで使われました。初めてのポジションで大変でしたが自分の強みは生かすことはできるなとは思いました。

-潰し屋としての本領が発揮できたと?

そうですね。自分の良さを生かせたのではないかと思いました。ただ、適性があったかは置いておいて、面白いポジションだと思ってプレーしていました。

-実際にアンカーをやられてみてはいかがだったのでしょうか?

1年目はほぼアンカーで大悟さんと伸二さんとのトライアングルでした。その2人が全部やってくれたので僕の仕事はハッキリとしていて、とにかく相手からボールを奪って大悟さんか伸二さんへ預けるということでした。

-エスパルス時代で一番印象に残っている試合というものは?

僕は鹿島アントラーズとのナビスコカップ決勝戦(2012年11月3日 @国立競技場)ですね。PKで1点ずつ取って、延長戦で柴崎岳にスルスルとドリブルでペナルティエリアに入られて決勝点を決められて負けてしまいましたけど…。

ただ、あの決勝戦の満員の国立の雰囲気が、藤枝東の時に同じ国立でやった選手権の決勝戦(2008年1月14日)がフラッシュバックしていて、「今はプロとして国立に立っている」という実感があって感慨深いものがありました。

-オリンピック代表の試合でも観客は入っていたと思いますが、それとはまた違う感覚だったのですか?

違いましたね。オリンピックのチームもチームなのですが、自分が所属しているチームで満員の国立競技場での決勝戦というのは別格でしたね。

-やはり声援というものは選手たちの力になりますか?

なりますね。ただ、エスパルスの場合はちょっとキツイ声援も多いので…。そこは改善した方がよいのかなと。

-いわゆる「野次」ということだと思いますが、村松さんが受けた中で一番ショックだった言葉というものは?

どの試合だったかは覚えてないですけど、スローインでボールを取りに行ったときに「もっとトラップを練習しろ」とか言われました。「それはそうだけど」とは思いましたけど「今言わなくてもいいんじゃないかな」とも思いました。まあ聞き流しましたけどね。

-特にIAIスタジアム日本平は観客席との距離が近いので、声はやはり聞こえると思いますが「ため息」などは気になりましたか?

僕はめちゃくちゃ気になりましたね。会場の雰囲気がダイレクトに伝わってきますから、結構気になりました。たださっきも言いましたけど、自分の中では「確かに的は得ているな」とは思っていました。特に「ため息」はそれだけお客さんが僕らのプレーに期待しているわけだし、その期待に応えるプレーをしなければいけないとも思っていました。

 

 

次回へ続く