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和田雄三氏インタビュー[vol.2]

-翌年にユースからトップに昇格してからは試合に出ていないのですが何がありましたか?

僕が2種登録選手としてトップに出ていた時は選手が23人くらいだったのですが、僕が昇格した年に多くの選手を獲得していました。横浜フリューゲルスが消滅して、そこから久保山(由清)さん、服部(浩紀)さん、あと安永(聡太郎)さんも横浜マリノスから入団してきて、元々強かったチームでしたけど更に層が厚くなったというのがあって、僕の出場する機会がなくなりましたね。あと監督もアルディレスから(スティーブ)ペリマンに代わりましたから…。

-アルディレス監督とペリマン監督では違いがありましたか?

そこまでの違いはなかったと思いますけど、アルディレスがやっていたサッカーの足りない部分を強化したのがペリマンだったかなと。ですからあまりやり方というのは変えてはいなかったと思いますけど、ペリマンが感覚でやっていたサッカーだけではなくて、そこに規律も加えた感じですね。

-その中で出場機会がなくなってどう感じていましたか?

その時は特に何も考えてはいなかったと思いますけど、振り返って考えてみると…プロになれたことで満足してしまったのかなと。その後の「プロになって何をするか」ということをあまり考えていなかったのかもしれないです。さっきも話したように案外すんなりとプロになれてしまったので。もっと高い壁があって苦労するのかと思っていたのですが…。

-プロになってそこから先の目標が見つからなかったのですか?

中学の県選抜に松ちゃん(平松康平)がいて「一緒にやれれば」という思いがあったりして、エスパルスのユースに入ったということもありますが…。あまり自分で決断してどうしようというのがなかったのかなと。プロになれたことも「なんとなく」というのが強くて、言い方は良くないですが流された感じはありました。ただ、自分の人生の中では結構そういうことが多かった気がします。

-それでも、プロ1年目で出場機会を失ったことはショックや葛藤があったのでは?

それはあったと思いますけど…。当時はまだリーグも整っていなかったと感じていましたし、とにかくトップチームとサテライトではその差が大きくて、サテライトにいるとどんどんその差が開いてしまうという感じでしたね。トップとは全然レベルが違っていましたから。

-なかなかトップに上がれない時は誰かに相談などはしていたのですか?

それがその当時はなんといいますか、「欲」がなかったというか…そういう意味ではイチ(市川大祐)や松ちゃん(平松康平)を見ていると「2人は自分とは違うな」というのはすごく感じました。「頑張らなければ」という気持ちはあったと思いますけど、今更ですけどそういう気持ちがもっと強ければその後が変わっていたのかなと思います。

-プロ2年目で大分トリニータへ期限付き移籍するわけですが?

クラブからは「2年目もエスパルスでやって良い」とは言われていたのですが、ペリマン監督にあまり好かれていなかったこともあり、監督が代わらないと1年目と同じで出番は回って来ないという状況でした。強化部からは「どこかへ行って(期限付き移籍)も良いよ」と言われて、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)とガンバ大阪の練習に参加したのですがどちらからも声が掛からなくて…。そういった状況で大分が誘ってくれたので移籍を決めました。

-移籍した大分はJ2ではありましたが、1年目は12試合に出て4得点と活躍されましたが?

静岡から出るのは初めてだったので、頑張ろうと思ってプレーしました。監督が石崎(信弘)さんだというのは行くまで知らなかったのですが、石崎さんは11人がそれぞれのポジションで1対1の勝負に勝つことを求めるサッカースタイルだったので…。ドリブルは得意でしたからそこが認められ、起用してもらえたと思います。あと当時のJ2はやっぱりJ1とのレベル差が大きかったなと思いましたね。

-当時の大分の選手層というものは?

GKに前川(和也)さんがいて、DFだと2歳上で静岡学園出身の山崎哲也さん、FWは今、大分市議会議員をやっている高松(大樹)がその年に高校から入って来ました。丁度、日韓のワールドカップの前だったので大分も盛り上がっていて、僕が移籍したシーズンに結構選手を集めましたね。

-大分では3年間プレーされましたがいかがでしたか?

楽しかったですよ。ただ、その頃にヘルニアになってしまって…。思い出としては痛みがなかなか取れなかったというのと、それが原因でプレーに支障が出てしまったということでした。1年目こそ、少し試合にも絡めていたのですが、そういうこともあって2年目、3年目はほとんど試合に出られませんでした。

-その後にヴァンフォーレ甲府へ移籍して引退されたわけですが、引退については悩まれましたか?

いや、なかなかプロとしては上手くやれていなかったですし、単純にもうサッカーは終わりにしてもいいかなと思っていたので悩まなかったですね。引退後は指導者なども考えていなかったですし…。案外スッキリと引退を決めました。

-プロ時代で一番印象に残っている試合というのは?

初スタメンした試合(1998年5月16日ナビスコカップ、対コンサドーレ札幌@日本平)ですかね。ナビスコカップの初戦でホーム開催の試合で勝利して、初得点もその試合でしたから印象に残っています。対戦相手の札幌のGKが後にエスパルスのGKコーチを務めたディド・ハーフナーでした。

-どのような形からの初ゴールだったのですか?

カウンターでしたね。GKの真田(雅則)さんからのボールをDFの(松原)忠明さんが受けて、(大榎)克己さんへ渡ったときに自分は左サイドから上がっていました。その後、逆サイドからきたボールをそのままダイレクトで合わせたゴールでした。

-得意のドリブルで持ち込んでカットインしてシュートではなかったのですか?

はい、初ゴールは違いましたね。あとリーグ戦とは違いますけど、東海地区のジュビロ磐田と名古屋グランパスの3チームで「東海チャンピオンシップ」というプレシーズンマッチのようなものがありまして、その磐田戦で僕と松ちゃん(平松康平)とアレックスの3人で自陣ペナルティボックスからパスを回して、最後に自分が決めた試合(1998年7月1日第1戦@磐田)も印象に残っています。

-確か名古屋との試合は9-0で勝利して優勝した年ですよね?

そうですね。名古屋との試合(1998年7月4日第2戦@日本平)では僕は途中交代で入って、その後に澤登さんが2得点を決めて9-0になったのですが、その後に「あと1点」コールが起こって異様な雰囲気になったのも覚えていますよ。

-引退してからの計画は何かあったのでしょうか?

デザインや物作りというものに興味があったので…。以前にエスパルスのマネージャーをやられていた松葉(孝)さんという方が、プロスポーツチームのグッズを製作する会社を立ち上げていて、「デザインの仕事をやりたい」という話をしてみたところ誘ってもらいました。

-それは引退してすぐに?

いえ、半年くらいは…最初は起業しようと考えていました。ブランドを立ち上げていろいろなデザインをやってみたいと思っていました。植田朝日さんの「ボンボネーラ」という東京の会社で「エスパルスを感じられるTシャツをデザインして販売してみない?」と声をかけてもらって、やらせてもらいました。清水の次郎長をモチーフにデザインしたフラッグがあったのですが、それは僕がデザインしました。あとはサポーターの団体のTシャツなどもデザインさせてもらいましたよ。当時はサポーターがデザインを考えたTシャツなどを企画ものとしてやっていたので、そういう感じのものをやりたいなと思っていましたけど、声を掛けていただいた松葉さんの会社にお世話になりました。

-デザインの勉強で、専門学校などには行かなかったのですか?

はい。パソコンの「イラストレーター」というソフトを独学でやって特に学校へは行かなかったです。

-その会社ではどのようなデザインを手掛けたのですか?

グッズの製作に携わりました。デザインというよりはまずは商品化するもののアイデアを出して…。今、展開している「ベースボールシャツ」や「タオルマフラー」とかもそうですね。自分が発案というわけではなかったですが、具体的に商品化する際にどうするのかなどのサポートをしていました。ただ、当時は種類も少なくて、正直あまりカッコいいものがなかった感じで…。サポーターやファンが欲しがるようなカッコいい商品を作ろうと。

-一番売れた商品とはなんでしょうか?

一番売れたのは…。マフラーなどは結構売れましたね。

-その会社では何年間仕事をしていたのですか?

4年ほどはやらせてもらったと思います。ただ、仕事はメールというか今で言う「リモート」でやれましたので、兄が大学院生で東京に住んでいて、そこへ居候させてもらっていました。半年くらい東京で人脈を増やして、それでまた静岡に戻ってそこから2、3年仕事をさせてもらいました。

-その後はエスパルスのスクールコーチに就任していますが?

そうですね。何かまたサッカーをやりたくなってしまって…。

-またサッカー界へ戻った理由というのは?

デザインで行き詰ったというか、自分が考えていた以上にデザインは奥が深くてもっと自分的にはイマジネーションやセンスがあると思っていたのですが難しかったですね。年齢的にも27歳くらいだったと思いますけど、親からも「何か資格を身に着ければ」と言われていました。ただ、この歳から資格を取って何ができるのかを考えたときに「やっぱりサッカーをやってきたので何かしら関わることができれば」と言う気持ちが強くなったということですね。それで自分が現役の時の通訳である今泉(幸広)さん(現エスパルススクールヘッドオブコーチング)や知っている方に相談に行ったら、その当日に「今日のスクールに出てみる?」ということになってそのままお世話になることになりました。

-実際に子供たちに指導してみた感想というものは?

最初に思ったのは「面白いな」ということでしたね。正直、自分はサッカーを感覚でやってきていたので人に教えることはできないと思っていました。それでも教えるというか子供たちと一緒にボールを蹴ったりするのは楽しいなと思いました。

-スクールで教える対象者は小学生だと思いますので、キッチリとしたサッカーというよりは楽しさを伝えるのが主だったのでは?

そうですね。そういう意味では逆に大事な時期ということもあり、スクールでサッカーの楽しさや他の選手と一緒にプレーすることで仲間意識を芽生えさせること。それが「本格的にサッカーをやってみたい」ということに繋がってくれれば嬉しいですよね。だから、本当にそこでやらせてもらえたことはありがたかったですし、自分としてはエスパルスに恩をずっと感じていたので、少しでも恩返しができればと思っていました。

 

 

次回へ続く