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大榎克己氏インタビュー[vol.2]

-ヤマハでは社員契約ということでしたがいかがでしたか?

午前中は仕事をして午後から練習ということでしたけど、私は「モーターサイクル本部国内営業」という部署で営業職でしたが、本社での内勤でした。

-午前中に仕事して午後から練習というのはキツくなかったですか?

いや、たいして仕事はしていませんでしたから、ホントに。半日しか仕事をしない人に重要な仕事はどこの会社でもやらせないでしょう。

-ヤマハで3年間過ごしたのちにJリーグが設立されるということで清水エスパルスが誕生して「禁断の移籍第一号」となるわけですが?

当時はライバル関係ではなかったのですが、いわゆる「オリジナル10」に静岡から選ばれるのは1チームのみということもあり、それに何もない清水が選ばれたことで磐田とは完全にライバル関係になったので、そこで清水に行くことになってかなり大変でした。

-もしも静岡から磐田と清水の2チームが選ばれていたらどうしていましたか?

うーん、清水に移籍はしなかったかもしれないですけど……でも、それでも清水に戻ったかな。逆に両方とも入っていた方が迷わずに清水に移籍していたと思います。ただ、自分はプロっぽくないので、どちらかと言えば「義理人情」を優先する人間なので……ヤマハは「2年後のJリーグ入りを目指す」と言っていたので、諦めずにそれを目指すチームを置いて自分だけ行っていいのかという葛藤はありました。

-義理人情に厚い大榎さんがそれでも清水に移籍したのは?

自分たち清水出身者が行かなければエスパルスが立ち上がらないと思ったからです。とにかく誰もいないクラブだったですから。でも、本当に人生の中で一番悩んだ出来事でしたね。ただ、私のことをよく知っている人たちからは「オマエが先頭を切って行く必要はない」とみんなに言われました。

-どうしてですか?

本当に誰もいない何もないチームだったのでどうなるか分からないじゃないですか。海のものとも山のものとも分からない、どんな選手が集まるのか、本当に選手が揃うのかも分からない状況でしたからね。しかも私は最初の1991年に移籍したので1年間は清水ではサッカーができなかったですね。チームがまだなかったので。堀池や三浦泰年とかは92年に入団ですから。のちにエスパルスに来た選手たちも91年は日本リーグ最終年を戦ってから来ていますから。

-なぜその他の選手とは違って1年前に移籍したのですか?

だから、他の選手たちもみんなが「大丈夫か?」と思っていたので、本当に自分たちが早々に入団して意思を示さないとそれに追随してくれないと思ったからです。あとは丁度ヤマハとの契約が切れるタイミングでもあり、もちろんヤマハからも継続のオファーをいただきましたけど提示が2年契約ということで1年待ってというわけにはいかなかった事情もありました。

-1991年に加入したのは大榎さんだけだったのですか?

(長谷川)健太も一緒の91年に来たのですが、彼は前十字をやってしまっていたのでリハビリにその1年を費やしました。私は怪我もなくバリバリでしたから。

-やはりエスパルスに来ることは使命感から?

それしかなかったですね。

-それで実際に何もないエスパルスに来てみて?

その1年は高校生に交じって練習をしていました。東海一高(現東海大付属静岡翔洋高等学校)で当時は白井(博幸)やテル(伊東輝悦)が高校生だったので一緒に練習させてもらっていました。それで6月くらいからブラジルに行かせてもらって3ヶ月くらい行っていました。エスパルスでやることを決めたので不安はなかったですけど、この1年はまあまあ辛かったです。

-その後に立上げメンバーが揃った時には「やれる」という感じがありましたか?

いや、まだ分からなかったですね。でも92年には大卒で澤登(正朗)や平岡(宏章)、高卒で岩下(潤)なんかが入って来て、その他のメンバーも来ましたけど……

-メンバーも揃ってJリーグの開幕前年にはナビスコカップに準優勝して、いざJリーグが開幕して戦ってみていかがでしたか?

まあ、そこそこは戦えるとは思いました。でも、当時のヴェルディは強かったですから、いかにヴェルディから勝利するかというのはありましたね。でもその中でファーストステージはサンフレッチェ広島が優勝したので、分からないものだなとも思いました。

-当時はなかなか優勝できなくて「シルバーコレクター」と言われていましたが?

そうですね。早くタイトルを獲りたいという想いはありましたね。当時は本当に「勝てない、勝てない」と言われて。「いつも準優勝だな」って言われていましたけど……今は「当時は強かったね」と言われますけどね。

-それで初タイトルは1996年のナビスコカップでしたが?

2点リードしたけど追い付かれて、やっぱりヴェルディの底力というものは感じましたね。正直、2点獲った時には勝てると思っていたのですが、そんな簡単には勝たせてくれなかったです。でもPK戦で勝利して初タイトルを獲得して、1つタイトルを獲ったというのはチームにとって大きかったと記憶しています。

-話は変わりますが、アイスタは観客席が近いこともあってサポーターの声が聞こえるということで当時もプレッシャーはありましたか?

いや、そんなことは当たり前というか別にプレイヤーとしてやっていた時は苦にはならなかったですけど、監督をやっている時はかなりのプレッシャー、まあ勝てなかったというのが一番ですけど、それはありましたね。あの時は選手たちもアウェーの方がノビノビとやれていた感じはしました。

-「監督」の話が出てきたので監督時代についてお聞きしますが、2014年7月にあの状況で突然監督に招聘されましたが、監督に就任された時というのは?

まあ、ある程度の自信はありましたね……ただ、引き受けた時のチーム状態は本当にバラバラでしたから大変でした。クラブユース選手権で群馬に試合に行っている時に当時の社長の竹内(康人)さんがわざわざ群馬まで来て「監督をやってほしい」と言われました。竹内さんは家にまで来たらしく、「(監督業というのは)家族も含めて大変な仕事だけどよろしく頼みます」と嫁さんに言いに来たそうです。

-プロ契約第1号になると決めた時と同じ「俺がやらなければ」という使命感がここでも?

それはいつも思っていました。あの時は長谷川健太からすぐに連絡が来て「オマエよく(監督を)受けたな。大丈夫か?」と心配されましたよ。

続く