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平松康平氏インタビュー[vol.1]

インタビュー:2024年4月


-お忙しいところ、本日はよろしくお願いします。

はい。こちらこそよろしくお願いします。

-本日(4月8日)は、小学校で挨拶をされたようですが?

今年度から柄にもなく子供の小学校のPTA会長を任されてしまって、入学式に新一年生の前で挨拶をしてきました。話を聞いてくれていたかは分かりませんが、これからの小学校生活を楽しみに目が輝いていましたよ。

-それでは早速ですが、平松さんはなぜサッカーをやることになったのですか?

そこからですか。今更聞きたいですか?

-「清水のワイルドプリンス」と呼ばれた、平松康平さんの原点を聞いておきたいと思いまして。

やっぱり清水に生まれた環境ですよね、周りもみんながサッカーをやっていたし、テレビでもワールドカップを中継していたりして…。僕は幼稚園のときに初めてワールドカップを観たのですよ。1986年のメキシコワールドカップでしたかね。そこにアルゼンチン代表として(ディエゴ)マラドーナが出ていて「わー、スゲぇ!」と思い、その影響もあってそこからは自然とボールを蹴っていましたね。他の人は「兄弟がやっていた」とか「近所のお兄ちゃんに誘われた」とかあるみたいですけど、僕はそういうのはなく自然とやっていました。

-それから本格的にサッカーに取り組んだのはいつからですか?

僕は小学校3年生のときに興津スポーツ少年団でサッカーを始めたのですが、当時の先生に「清水FCのセレクションに行ってみろ」と言われて、ゴールキーパーでセレクションに参加しました。

-ゴールキーパーですか?小学校3年生当時は身長が高かったとか?

いや、全然です。

-自分からゴールキーパーを望んだのですか?

いいえ。その時に「清水FCにゴールキーパーがいないから行ってくれ」と言われて、「はい」という感じで行きました。でもどこでもどのポジションでもポテンシャルを持ち合わせていたので、セレクションには受かりましたよ。

-清水FCは、その年代でも強かったですか?

冬の大会からウチの学年はとても強くて、そのメンバーで小学校6年生の時には全国優勝もしました。

-当時のメンバーというのは?

イチ(市川大祐 現清水エスパルスコーチ)がいて、高林佑樹(元清水エスパルス)、森勇介(元川崎フロンターレ)、水野晃樹の兄貴の水野和樹(元SC相模原)、あと月見里亮介とか、錚々たるメンバーでしたね。全日本(全国少年少女草サッカー大会)の決勝戦で、6-1だったのですよ。敵なし状態でした。だから全国大会に行くと、小学生ながら「サインしてください」とか言われて…。考えられないですよ。

-その時のポジションというのは?

フォワードです。当時は4-4-2が主流でしたから、僕と月見里が2トップで左に水野和樹、中盤に高林、石間崇生(元京都サンガ)が固めて後ろにイチがいたから。だから清水FCの場合は、ボールが来ないからゴールキーパーが育たないのですよ。

-やはり、ゴールキーパーより攻撃的なポジションは楽しかったですか?

点が取れるから面白かったですね。身長は高くはなかったですが、清水FCは個人技術の練習をやっていたのでそこは磨かれました。その技術は、後にプロになっても落ちることはなかったです。あわせて、本当に当時は地域で強くしようという動きがあり、堀田哲爾というカリスマの存在があったので、地元や地域で強いサッカーチームを作り出そうという雰囲気はすごくあったと思います。

-練習は厳しかったですか?

今考えても地獄でしたね。週4日は17時から19時まで興津スポーツ少年団の練習で、清水FCは週3日でした。当時の清水FCは、3年生のときは誰でも入れたのですよ。それで4年生で何となく振り落とされて、5年生になると全国大会が目標になるので、本当に上手い選手しかいなかったですね。

-そして6年生で全国大会の優勝を引っ提げて、いよいよ中学生になってジュニアユースへと?

そうですね。自分たちがその年代になった時にJリーグが開幕して、元々は清水FCの中学生チームもあったのですが、それがエスパルスジュニアユースになったということで、だから私は1期生になります。

-当時の清水FCのメンバーの全員が、ジュニアユースへ移ったわけですか?

そこで中体連へ行くかクラブチームへ行くかっていうのはあって、でも1軍クラスの選手たちはほとんどエスパルスに入りましたね。だから1期生は強い。そこでも日本一取っていました。

-そうすると、ユースへ昇格するのもそのメンバーがほとんど残ったのですか?

いや、ユースに上がる時には振り落としもあったし、高校サッカーで選手権に出たいという子もいたので…。当時は、ユースチームとかJリーグというのは世間的にもまだ認められていなかったというか、やはり親御さんたちも「学校には行ってほしい」というのがあって、今はもう「サッカーで将来生きていかせる」という親御さんも増えていますけど、昔は、例えば公務員の家などでは「サッカーで生活なんてできるのか」という感じでしたからね。

-平松さんとしては、中体連や高体連よりものエスパルスでプレーしたかったですか?

そうですね。その年代で一番強いチームでしたからね。それで、ユースになってから高校1年生や2年生ぐらいでトップチームのサテライトに絡めるので、もう「高校生とサッカーはやれない」となりましたよね。

-清水FCでの練習も大変だったということでしたが、Jクラブの下部組織の練習というものはいかがでしたか?

違いましたね。全然違った。やはり何て言うのかな、基本的にそれまで普通だった「スパルタ」みたいなものはなくて、指導されることも個人戦術的なものでしたね。それは子供ながらに感じていました。当時は行徳浩二(元清水エスパルス監督)さんや望月保次(元清水エスパルスヘッドコーチ)さんが関わり始めた頃だったから、「サッカーを覚えるにはここ(エスパルス)だ」というイメージは選手みんなが感じていたと思いますよ。

-クラブチームだと、スパルタ指導というものはもうなかったのですね?

なかったですね。でも自分に限ってはありましたけどね。僕だけスパルタでやられて、毎日「なぜ?」という感じでした。

-それは、平松さんがヤンチャだったからではないですか?

そうなのですよ。全然言うこと聞かなかったですからね。

-それでも、クラブチームへ入って充実感というものはありましたか?

はい。やはりチームも強かったですし、自分が上手くなっているという実感もあったので、目の前にはトップチームが見えているわけですよ。それってやはり、その将来の目標値が見えるか見えないかというのはすごく明確な違いがあるので…。その当時のエスパルスは本当に強かったので、「トップに上がりたい」というのはすごくありました。自分も上がってやれる自信しかなかったですけどね。

-ユースになると、学校との両立というのも大変だったと思いますが?

あー、今だから言いますけど、ほぼ学校には行かなかったような記憶が…。

-一応確認ですが、勉強は好きでしたか?

そういう風に見えますか?ただお母さんには、「あんたはやればできる子だから」とは言われていましたけど、全然やらない子でしたね。だって疲れちゃうんだもん。ユースの練習を17時までやって、18時から蛇塚の練習場まで行ってトップチームと練習するじゃないですか。そして家へ帰るのが23時頃になって眠るのが0時でしたから、それで次の日また7時から学校…。それはなかなかハードで、勉強どころじゃなかったですね。

-そのことについては、今の年齢になって何か思うことはありますか?

本当にサッカー漬けという感じでしたよね。でもそれはすごく良かったと、今でも思っています。今の時代の子は当時の僕らとは違って優等生だから、勉強もやって両立することができているのだと思いますけど…。ただ、それが特別良いとも思わないし、悪いとも思わないけど、どちらかに集中できる方が良いのかなとは思いますね。もちろん勉強することは必要だし、社会に出てから必要なことを学校で学んでいるはずなので、それは大事なことくらい分かりますけど、僕みたいに器用ではない人間は、どちらも中途半端になってしまうのではないかと…。学校には行って仲間は作りましたけど、勉強はやれなかったですね。いや、やらなかったですね。

 

 

続く