-加賀美さんの子供時代と比べて今の子供たちというのは?
自分の子供時代は親父が厳しかったので、暇があれば公園に連れて行かれてサッカーをやらされていましたね。妹も付き合わされてボール拾いをやらされていました。そういうタイプの親父だったので、今思うとそこは親父に感謝ですね。それがなければサッカーもやっていなかったでしょうし…。でも、当時は「またかよ」と思っていました。子供の時は何がいいのか分からないので、そういう意味では強制的にやるのもプラスになることもあるのだなと思います。
-ある意味、今のスクールの子供たちにとって加賀美さんのお父様が今の加賀美さんということに?
いやいや、ウチに来ている子は「やらされている」とは思っていないと思いますよ。本心は分からないですが。でも、何かのキッカケになってもらいたいとは思います。もちろんサッカーをやっているのでサッカーを続けてもらいたいですが、例えサッカーをやめたとしても、小学生の時にスクールに行っていたことがこれからの何かにプラスになればいいなと思います。今は忙しい子が多くて、他のチームに入っている子もいるし、もちろん勉強もしなければいけないですし…。ですからスクールは月謝制ではなくて回数券でやっているのですが、疲れが溜まっていたり、忙しければ無理して参加しなくてもいいからと言っています。
-これからの目標というものは?
本当にやれるのであれば「チーム」というものもいいなと思っています。今は単発で個を教えていることがメインなので、自分の理想とするサッカーをチームとしてやってみたいというのはありますね。個の基礎ができたら次はチームとして、自分も相手も生かすチームプレーというものもやってみたいですよね。それで試合で結果が出れば、やっぱり楽しいと思いますから。まあ現状のスクールとしては、もう少し中学生にサッカーを広めたいと思っています。今の中学はなかなか部活動も盛んではなくなってしまっていますし、この富士地区だとクラブチームも少ないですから、あまりサッカーをやる機会がなくなってしまっているのが現状だと思います。ですから、中学生にもっとアプローチしていければと思っています。
-そもそも、加賀美さんがサッカーを始めたキッカケというのは?
きっかけは幼稚園でのサッカー教室だったと思います。チャイルドサッカー大会で幼稚園の選抜に選ばれたことや、いとこたちが皆サッカーをやっていたので、一緒にサッカーで遊んでいました。親戚が集まった時の写真でも、サッカーボールを持ったものが多いですね。
小学校4年生までアスルクラロ沼津の前身である沼津セントラルスポーツクラブのスクールに所属し、その後、鷹岡天間サッカースポーツ少年団に入って本格的に試合にも出ていました。少年団に入ってから、しっかりとサッカーをやり始めたのが私のスタートですね。
-最初からポジションはFWだったのですか?
少し背も高かったのでディフェンスをやったりしていましたけど、基本的にはFWでした。
-中学時代はACNジュビロ沼津へ入団されていますが?
エスパルスのジュニアユースも受けたのですが落ちました。試験の前日に嘔吐下痢になってしまった自分が悪いのですけどね…。4次試験の前日にジャージを持って行くのを忘れてしまって、セレクションは真冬だったにもかかわらず半袖半ズボンという格好でしたから、案の定夜に嘔吐して…。家族からも「明日のセレクション大丈夫?」と言われていたのですが、行ったけど体が動かずに何もできない状態となって不合格となりました。それから3年後、ユースのセレクションを受験した時に、伊達(倫央 アカデミーダイレクター)さんに「なぜジュニアユースの時に落ちたの?」と不思議がられました。
-当時からもう選手としては有名だったのですか?
有名かどうかは分からないですけど、身長も高かったですし、身体能力系の選手だったので、小学生の中では少し抜け出ていたところはあったと思います。走るのも速かったので。
-地元が富士ということならばジュビロ沼津の方が近いと思いますが、まず清水エスパルスのジュニアユースを希望したのはなぜですか?
どうでしょうね。周りのみんながエスパルスに行くから…。やっぱりサッカーを極めることを考えると、この辺では一番強いのがエスパルス、もしくはジュビロ沼津ということで、その2つを受けてみて、エスパルスに入れなかったので沼津に行ったということですね。
-その後、ユースはジュビロには行かなかった理由というのは?
やっぱり、ジュビロユースにもセレクションがあって…。中学3年生の時は自分でもやれている手応えを感じられていましたから大丈夫だと思っていたのですが、今でもなぜ落ちたのか分からないですよ。
-ジュニアユースとは逆で、ユースのセレクションはジュビロが落ちてエスパルスは受かったと?
そうですね。市船(市立船橋高等学校)や育英(前橋育英高等学校)、横浜FCからも声をかけてもらっていたのですが、親から「県外だといろいろと経費がかかるので県内のチームにしてほしい」と言われて…。清商(現清水桜が丘高等学校)からも誘われていましたので清商かなと思っていました。でも親父から「エスパルスのセレクションがあるぞ」と教えられて受けに行きました。
-加賀美さんとしてはどこへ行きたかったのですか?
実際にその時は、高体連に行って「選手権に出たい」とか「ユースへ行きたい」とか全然考えていなくて…。単純に「サッカーがやれて強いチームに行きたい」ということしか思っていなかったですね。ただ、僕が知らないうちに親父が県外のチームには断りを入れていたみたいで…。エスパルスのセレクションも言われたので行ってみた感じで、合格すれば親も楽だし、将来はユースからプロに昇格できるかもしれないしということぐらいで、そこまで「どこに行こう」というのは考えてはいなかったと思います。
-それでエスパルスユースに実際に入ってみた感想は?
1年目はしんどかったですね、なかなか試合に出られなかったです。1つ上に(柏瀬)暁くんがいて、2つ上には(柴原)誠くんがいたので、少しは出場させてもらいましたけど満足するほどではなかったですね。2年生になってから途中出場とかが多かったですけど、少しずつ出場時間も長くなりました。得点を決めたりしましたけど、実際は3年になってからですね、コンスタントに試合に出たのは。
-プロを意識し出したのも3年生になってからですか?
そうですね。高校2年の終わりくらいからです。3年生になって試合ですごく点を取っていたので、「声はかかるだろうな」とは密かに思っていました。
-同期には石毛秀樹(ウェリントン・フェニックスFC)さんがいましたが、良いコンビだったのですか?
一緒にやっていましたけど、石毛とは数試合しかやっていないですね。石毛は3年の時にはもうトップチームに絡んでいましたから、本当に最初の2ヶ月くらいです。鹿島との試合で、石毛のアシストで点を取ったりしましたね。それがキッカケで点が取れるようになった記憶があります。
-トップチームへの練習参加もされていましたし、石毛選手がいち早くトップで活躍している姿を見て、やはり自分もやってみたいという思いが強くなりました?
そういう気持ちはありましたけど…。トップへの練習参加もしんどかったですね。岩下(敬輔)くんとか厳しい先輩方がいましたので、これまで言われ慣れていなかったこともあり、なかなかでしたね。高校生としてはメンタルをだいぶやられました。それでも練習試合だったと思いますけど、ユースから何人か参加させてもらった時に点が取れて、「やっぱり楽しい」と思いました。
-そして実際に昇格が決まった時には?
嬉しかったですね。まあずっと子供の頃から「Jリーガーになりたい」と思っていたわけではなかったですけど、ユースに入ってからJリーグも観るようになりましたし、日本平でボールボーイもやりましたから、あの雰囲気の中でプレーするのは気持ちが良いだろうなという思いもありました。昇格を聞いた時には素直に嬉しかったですね。少し不安もありましたけど、それよりも3年生になって点が取れていたので「やってやろう」という気持ちが強かったです。
-石毛選手以外の新卒の同期入団には他には誰がいましたか?
(三浦)玄太(ガンバ大阪)がいて、大卒だと瀬沼(優司 SC相模原)くん、六平(光成)くん、藤田(息吹 ファジアーノ岡山)くんですね。
-その石毛選手は、この夏にニュージーランドのウェリントン・フェニックスFCへ移籍されましたが?
律儀に連絡をもらいました。でも、今から海外へというのはちょっと驚きました。今までにもチャレンジするチャンスはあったと思いますけど、ここで行くかと。でも「ようやく海外か」という思いもありますね。だから本当に頑張ってほしいです。最近、ガンバ大阪での出場が減っていたからどうしたのかなと思っていたので、海外でまた活躍する姿を見せてもらいたいと思います。
-石毛選手に対しての思いは何かありますか?
連絡をくれるのは嬉しいのですけど、正直もう少し地元に帰って来てほしいですね。静岡に戻っては来ているみたいですけど富士には帰って来てなくて…。地元を離れてかなり経ちますし、エスパルスから移籍してもう8年くらいになるじゃないですか。スクールに来ている子供たちが石毛秀樹のことを知らない子が多いのですよ。エスパルスであれだけ試合に出ていて、その後にガンバ大阪に行って、ヒラ(平岡康裕)さんは富士宮出身だから富士だと石毛が一番有名なJリーガーのはずなのに、知らないというのは…。まあ引退したら戻って来てくれるかもしれないですけど、将来は一緒に何かのイベントをやれたらいいなと思っています。
- <佐野匡則コーチと>
続く